投稿

6月, 2020の投稿を表示しています

夢のロッキング・チェア 発表年:昭和39年(1964)12月号

イメージ
基本情報 作者:雨妙院一太 風俗奇譚 昭和39年(1964)12月号 P62-P70 掲載 パブリックドメイン :保護期間満了の為 タイトル 夢のロッキング・チェア あおり 江戸川乱歩の名作『人間椅子』さながらのロッキングチェアをつくり、女に腰かけてもらって陶酔する男! 本文  女のベンチの下に  山下口から駅を出ると、牧村逸平は、まっすぐ公園の石段を上った。  冬のはじめにしては暖かい夜ではあるし、時間もまだ八時ちょっと回ったばかりの宵の口なので、山の上には、かなりの散歩の人かげが見える。  そのほとんどが、男と女のアベックだ。逸平のようにひとり歩きの男は、かれらの目からは、哀れにもさびしげに映るかもしれなかった。  が、逸平のほうにしてみれば、男女づれなどには用はない。かれの目ざしているのは、女ひとりー いや、ふたりでも三人でも、いい、とにかく女だけの姿なのである。  そうした女だけの姿をもとめて、逸平は、毎夜の如く、のら犬のように、のらネコのように、町から町を彷徨する。  といっても、かれは、混んだ電車のなかなどでよくみかけるような、”痴漢紳士”のごときまねをするのでは、絶対にない。かれの目的は、女に奉仕したいことにある。  身長一メートル五一、体重五六キロのからだを、女の前に奉仕することで、かれの青ざめた心はよみがえり、命を燃焼させることができるのだ。  博物館のほうへ向って、ゆっくり歩をはこんでいた逸平は、途中から気がかわって、山を左へ、だらだらとおりると、不忍池畔にはいった。  ここにもチラリホラリ、人の影がある。逸平は、池をめぐりはじめた。  明月や池をめぐりて夜もすがらーー芭蕉の名句さながらに、月が池のおもてに影を投げている。ほおーっと、大きな暈をかぶった月だ。  逸平はふと、女の乳暈を思い出したが、つぎの瞬間、「ああ、もったいないや」とつぶやいた。  --われわれMの徒には、めったにおがむことのできない乳ぶさを考えるなんて……。  その念を打ち消すように、二度三度、頭をふった。  とそのとき、逸平の目にピカッと映じたものがあった。  池畔におかれたベンチのひとつに腰をおろしている人がすった、ライターの光であった。  逸平は反射的に、そのほうへ目をとめた。池のほうへ向いているので、顔はわからないが、濃いエンジ色の皮ジャンらしいものを着ている女である。...

中国の男娼 ”相公(シャンコウ)” 永野白楊 発表年:1952

基本情報 作者:永野白楊 奇譚クラブ 1952年8月号 P119-P121 掲載 パブリックドメイン :保護期間満了の為 タイトル 中国の男娼 ”相公(シャンコウ)” 本文  これは中国の暗黒社会で行われている男色を売る少年の話である  この男色を売る少年を指して、上海辺りでは相公と称していて、今尚お流行している、尤も今は昔のように盛んではなかつたが、それでも、盛んに薄暗い路次などの廓の家に立て籠り、可なり大規模に組織的に跳梁しているのは事実である。昔日本の野武士共や今の学生間の一部にも、美少年を愛するという傾向はあるがそれは所謂、変態性慾として取扱われる同性の愛の実現に止まり、男色を売つて生計を営むと云う此の相公とは自ら世界が別で、それは今少し夢幻的神秘的のものである。然るにこの相公なるものは、此の夢幻神秘の殻を破り、黄白を朝夕枕を代え、同性の男に身を任すのでその裏面には、目を円くして聞くような奇談珍聞が多くある。  × ×  相公はその営業の性質上眉目秀麗の美少年が必要であるのはいう迄もないことであるが、彼等は男であつてその実、全く女である、只、着物と足だけは仕方がないとして、その弁髪を垂らし(今は前髪をしたものが多いが)之れを美しく梳つて油気の失わぬよう手入れをして、顔には脂粉を絶やさず、外出の時はいつも懐中鏡を携帯し時々之を取り出しては、紙白粉かなんかでお化粧をする。又手には香水をまいたハンカチを持ち女のようなお尻の振り方をして楚々として歩を運ぶ様子等は全く女の盛装したものとしか受け取れない。  そして物云う時も女のような嬌態を作り、一寸横目で秋波を送つてあまれかかつたり  時には寄席で多くの見物を前に控え、平気で黒色い声で花鼓歌を唄つたりなどする姿などは全く女性そつくりで、そこらの山出しの女等はその容色に於いて、そのチヤーミングな点に於いてとても彼等の足許にもよりつけない。  彼等自身が優しく美しく且つ女性らしらをもつて密かに得意とするという心理状態の女性化は、やがて、その言行をして之れに做しめているのは又己む得ないかも知れぬ。殊に驚かされるのは同じ堂内に於いて彼等が互に姉妹と呼んでいることである。  例えばその堂に十人の相公が居れば互に十姉妹と称し、五人なれば五姉妹と唱え、若し、茲に菊という名の年少者が居るとすれば、年長者は此の年少者に対して菊妹と呼び菊...

男女和合の性神 ◎生駒の聖天◎

基本情報 作者:不明 奇譚クラブ 1952年6月号 P57 掲載 パブリックドメイン :保護期間満了の為 タイトル 男女和合の性神 ◎生駒の聖天◎ 本文  聖天即ち歓喜天は密教の天部の一つであつて、象頭人身の男女の相抱合した性神をその本像とする。除病、壊災、治病、致富等諸方面に亘る施福神として諸人に尊崇せられているが、その中でも男女の和合に著しい靈験があると称えられて、花柳界の女子に大いに信仰されている。  畿内で最も繁昌しているのは、「生駒の聖天さん」と呼ばれている生駒山の宝山寺に安置sされてある大聖歓喜天であつて、毎月一日と十六日の縁日には、京阪神の花柳界の姐さん連が押し寄せ、毎月の参詣者は二千人を下らぬという有様で、生駒駅は紅紫とりどりの時ならぬ艶めかしさに彩られる。参詣者たちは、清酒、団子、大根等を捧げて施福を祈るるのである。  象首人身の男女二体より成る性神聖天の像は厨子の内に深く安置されてあるから、参詣人には見えない。それに対して大事な祈願をかけるには、浴油供といつて、深夜僧侶一人、胡麻油を盛つた銅器の内に聖天の像を入れ、依頼者の願事を唱えながら、匙で油を象頭に注ぐのである。聖天に対する供養法には、此の浴油の外に、酒供、花水供というのもある。  昔は生駒山の麓にある河内の住道から山頂まで、五十八町の坂を一歩進んでは三拝しながら、五十日程も費して参詣する修行者もあつたが、今ではケーブルカーで一足飛びである。迷信深い花街の女たちを目当てに妖しげな祈禱を施す白衣の男が出没するのも此の辺りである。(終)